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第1章 邂逅 3/5

last update Last Updated: 2025-04-26 11:02:12

「柚希〈ゆずき〉さんはこの場所、初めてなんですよね」

「あ、はい。いつもは学校が終わるとまっすぐ帰ってるんですけど、今日はちょっと色々あって、少し休むつもりで」

「それって、その傷と関係あるのですか」

「あ、いや、それは……」

 その言葉に、柚希が少し表情を曇らせた。

「ごめんなさい。私、余計なことを」

「いえ、大丈夫です。気にしないで」

「本当にごめんなさい。私、こうして人とお話するのが久しぶりなので、少し興奮してるみたいで……あの、柚希さん」

 そう言って、紅音〈あかね〉が距離を詰める。甘い香りがした。

「え……」

「大丈夫です。少しだけ、動かないでもらえますか……」

 紅音が腰を下ろすと、木にもたれる柚希に覆いかぶさるような格好になった。

 紅音の動きに柚希は混乱し、慌てて目を閉じた。

 手袋を外した紅音は右手で柚希の頬に触れ、左手を木に沿えると小さくつぶやいた。

「お願い……少しだけ、あなたの力を貸してください……」

 不思議な感覚だった。

 紅音の手のぬくもりが、頬から体全体に伝わってくるようだった。

 そのぬくもりは温かく、そして心地よくて。

 言い様のない安息感が柚希を包み込んだ。

 * * *

「どう……ですか?」

「え……」

「まだ痛みますか?」

 紅音の声に柚希が目を開けると、目の前に紅音の顔があった。

 吐息を間近に感じる。

 目が合った柚希は、緊張の余り全身が硬直するような感覚に見舞われた。

「あ、あの、紅音……さん……」

「え?」

「あのその……顔、顔が、その……近いです……」

「あっ!」

 柚希の言葉に、紅音が慌てて離れて目を伏せた。

「ご、ごめんなさい、私……また変なことを……」

「あ、いえ、そうじゃなくて……僕こそすいません、なんか失礼なことを」

 その時柚希が、体の変化を感じた。

「あれ……」

 頬に触れると、傷の感触がなくなっていた。

 脇腹の痛みも消えている。

「どうして……怪我が、怪我が治ってる!」

 驚きの余り、柚希が大声を上げた。

「よかった……もう痛くありませんか」

 紅音が嬉しそうに微笑んだ。

「これって、紅音さんが? でも、どうしてこんな」

「物心ついた頃から、私が持っている能力なんだそうです。左手で触れた物の力をもらって、右手で触れた物の傷を癒すことが出来るんです。今、柚希さんが背にしているこの木から、少しだけ力を分けてもらいました」

 そう言って、紅音が少し寂しそうな表情を浮かべた。

「でも……お父様からはこの力のこと、人に言ってはいけないし、軽々しく使ってはいけないと言われてます」

「どうして?」

「気持ち悪いじゃないですか、こんな力。子供の頃、このことを知った友達は、みんな気味悪がって離れていってしまいました」

「そんなことないです。すごい力じゃないですか」

「え……」

「気味悪いだなんてとんでもない。超能力……でいいのかな。未知の力がこの世にはあるって思ってたけど、こんな優しい力があっただなんて」

「優しい……私の、この力が……」

「傷を癒すことが出来るんです。優しいに決まってるじゃないですか。それに触れてもらった時に感じた、あの穏やかな感覚。その力は紅音さんと同じ、優しい力です」

「そんな風に言ってもらえるなんて……嬉しいです」

「ありがとうございます。それからこのこと、誰にも言いませんから」

「柚希さん……」

 紅音が嬉しそうに、にっこりと笑った。

 その時、紅音の腕時計のアラームがなった。

「いけない、もうこんな時間」

 アラームの音に反応し、傍で座っていたコウが立ち上がり、一声あげた。

「ごめんなさい柚希さん、そろそろ帰らないと。お父様が心配しますので」

「あ、いえ、僕の方こそすいません。コウもごめんね、折角の散歩の時間、僕が潰しちゃったね」

 立ち上がり腰の土を払うと、コウの頭を撫でて柚希が微笑んだ。

「紅音さん、どうぞ」

 柚希が差し出す手を恥ずかしそうにつかみ、紅音も立ち上がり日傘を開いた。

「家まで送りますけど、この辺りなんですか?」

「はい、山の方に向かって10分ぐらいのところです。でも大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

「今日は色々と、ありがとうございました」

「私の方こそ楽しかったです。それで、あの……」

 紅音がうつむきながら、ひと呼吸入れて言った。

「また会えませんか?」

「え……」

「よければまた、ここで……」

 言い終わると、小さく肩を震わせた。

「分かりました。じゃあ、明日の16時にここで、でどうですか」

「え……」

 紅音が顔を上げると、柚希が照れくさそうに笑っていた。

 そして少し表情を強張らせながら、ぎこちなく言った。

「それで、その……もしよければ紅音さん、友達になってもらえませんか」

「友達……」

「勿論、その……紅音さんがよければ、なんですけど……」

「私なんかと友達に……なってもらえるのですか」

「僕もダメダメな男子なんですけど、紅音さんさえよければ」

 そう言って、柚希が照れくさそうに手を差し出した。

「は……はい、よろしくお願いします!」

 満面の笑みで、紅音が柚希の手を握った。

 * * *

 辺りが夕焼けに染まる中、帰路を歩きながら、柚希の心は軽くなっていた。

 さっきまでの重苦しかった気持が、嘘のようだった。

 頬に触れ、あの時の感触を思い出すと、自然と笑顔になった。

 生まれて初めて自分から作った友達。そう思うと、思わず声を上げて叫びたくなった。

「桐島紅音さん、か……」

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